臨済宗妙心寺派 今川家菩薩時 大楊山 長慶寺

嘉慶年間(1387~1388)に今川三代泰範公が開基として開創され、 戦国の大軍師でもある、太原崇孚和尚が眠る由緒あるお寺で大切な ご先祖様を大切にご供養致します。

みどころ

今川三代泰範公の五輪塔

今川三代泰範公の五輪塔

長慶寺の開基であり今川家三代泰範公が眠る”五輪塔”。
今川範氏の次男。若い頃は鎌倉建長寺に入り修行していたが兄氏家が若くして没したため,還俗(げんぞく)して家督をつぎ,駿河(するが)(静岡県)守護となる。明徳の乱,応永の乱で戦功をたて,遠江(とおとうみ)(静岡県)守護もかねた。応永16年9月26日死去。76歳

太原雪斎長老の無縫塔

太原雪斎長老の無縫塔

雪斎は義元を政治・軍事の両面で全面的に補佐する軍師でありながらも、名僧としても名を轟かせた”太原雪斎”の無縫塔(向かって右側)。
義元と初めて出会ったのは大永2年(1522年)頃のこととされる。はじめ雪斎は九英承菊(きゅうえいしょうぎく)と名乗って、駿河富士山麓の善得寺に入寺し、幼名を芳菊丸といった義元の教育係を務めた。後に京都五山の建仁寺で修行をしていた。この頃から秀才として将来を嘱望されていたと言われる。この噂を聞いた主君の今川氏親から帰国して今川家に仕えるよう要請されるが、一説にはこの要請を2度までも断ったと伝えられる。享禄3年(1530年)、建仁寺の師である常庵龍崇によって芳菊丸が得度の儀式(薙髪染衣)を行い、承芳と名を改める。2人はさらなる修行のため、大永5年(1525年)と天文2年(1533年)の2度にわたって上洛し、善得寺から建仁寺へ、さらに妙心寺へと移った。この頃に承芳は道号「栴岳」を与えられ栴岳承芳と名乗り、承菊はそののちに太原崇孚(雪斎)に改めたとされている。

今川義元古文書
長慶寺文書
長慶寺の裏山から
観音像を発見
伝説
陀蛇(へびのぬけがら)